感動を記録する

チグミスンガン、チョスンウ ssi に夢中

오패라의 유령 2023.5.3夜 チョスンウ回 観劇レポート

 

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2023/5/3(水)夜。

조유령観劇3回目。

下手側端っこ前方ブロックでの鑑賞。他の席では見たことのない角度の表情が見えて興奮した。すごくよかった。

 


ファントムの感情表現がやはり素晴らしかった。

痛々しく、いじらしく、はたからみたら無様なんだろうけれども、すごく大切な、美しいものに見える。かっこ悪さが逆にかっこいい、というのともちがう、惨めさのなかにも味わいがある、といった感覚とも違う。

ファントムの姿を、ああ、なんて、なんていうことだ、どうしよう、と思いながら、心を締めつけられながら見てしまう。

客観的にも世の中的にもどれだけ惨めで無様なことか分からない、それでも今これを目の当たりにしている私にとってはものすごく共感できて、ものすごく尊い美しいものだと思える。ファントムが受け入れられないことがすごくよくわかるから、その純粋さ、とまどい、怒り、絶望、悲しみ、さまざまの感情がどうにもならないことがよくわかるから、その、どうしようもないんだという状況を前にして泣いてしまう。

なんて健気なファントム。本当にかわいそうだ。

 


ファントムがいま目の前で繰り広げているこの状況、その気持ちに私は心当たりがある。(私に限らず他の人もきっとどこかで。)

人と人とのことに限らずとも、夢や、仕事や、何か無謀なものに心を注ぎ込むこと、自分が自分のままでいられなくなるぐらい何かに心を傾けて、そしてそれが自らの望む結果にならず夢破れたこと。ファントムの姿はその痛みそのもので、だからこそ心を震わされて泣いてしまう。

しょうがない、しょうがなかったんだ、一所懸命やったけれどもだめだった、しかたがなかったんだという、その痛み。そして、ファントムが体現する生々しい絶望の姿を通して、観るものは、その喪失や敗北がけっして「無」ではないこと、得られなかったけれども「無」ではないこと、たったひとつの大切な何かであったことを知る。そしてさらに、己にとっての喪失もまた、そうしたものだったということを知る。

無ではなかったと。痛みでしかないかもしれないけれども無ではなかった、生そのものだったと。

 


救いようのない悲しいシナリオでも、この作品を観た後に、涙を流してぐったりとした疲れの中から新しい息が蘇ってくるような、不思議な爽快感があるのは、観るものにこうした心の旅をさせてくれるからだと思う。

そしてチョスンウによるファントムの解釈、その精細な心理表現、ファントムという「人間」の表現の積み上げが、なおさら、その旅を豊かで唯一のものにさせる。チョスンウならではのファントムが、最後の場面の情念の爆発するところまで、綿密に、大胆に、一気呵成に観るものを心の旅に連れていく。

とても素晴らしかった。

得難い経験だった。

 


素晴らしいものを観た、今日もまた生きていてよかったという気持ち。そして、今日がそうだということは、明日からもまた私は自分自身を生きていけるのだ、生きていくのだという気持ち。その思いを胸に溢れさせてくれてありがとう。

心から感謝します。

 


スンウさんのファントム、素晴らしかった。

今日はまさに、出し切った、という感じがしたし、にも関わらず、カーテンコールでユーモアを見せてくれて、それがとても嬉しかった。

また舞台と客席の間で会える嬉しさ。この先の公演も、ずっと、とても、楽しみにしています。